テニス&バドミントンスクール ノア 姫路校

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好きな本の紹介をします。傑作選その3

またお会いしましたね、コーチの門井です。

今週ブログを投稿した木曜日は節分でしたね。全然意識してなかったので、投稿した後に思い出しました。鬼に豆を撒いて追い払う、という通年のイベントも存在しますが、そもそも何故豆なのか?それは魔(ま)を滅(め)するという意味が込められているんだとか。 

日本では割と身近な「鬼」ですが、その正体は「魔」というものを具体化した存在とされています。災厄とか不幸とか疫病とか、そういった人々を脅かす目に見えないものを総称して昔の日本人は「魔」と呼んだのです。人間は得体の知れないものに対して恐怖を抱きます。『幽霊の正体見たり枯れ尾花』ということです。「知らない」「わからない」ということがそのまま恐怖なのです。だから立ち向かう為に姿形を表現した。それが鬼という存在だったのです。だから面白いことに姿形が多少違えど、他の国にも鬼に似た存在がいますよね。

今世間はわりと大変なことになっていますが、コロナもいってしまえば「魔」の一種です。撒いているのは消毒液ですが…。しかし目に見えない恐怖に対しても人間は立ち向かってきた過去があります。もっと医療技術も生活水準も低かった時代にも疫病や飢饉は存在しました。それさえも乗り越えた人間の子孫が我々です。底力見せてやりましょう。

なんか熱くなってきたところですが、そろそろ本題に移りたいと思います。

というわけで今回私が紹介する小話は
2020年12月3日「その20」
誕生日当日ブログです。
再紹介する本は
2020年7月16日「その3」
瀬尾まいこ「そして、バトンは渡された」です。

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本日12月3日が一体何の日か、皆様ご存じでしょうか?

実は、本日は私の誕生日なんです!!!
本日を持ちまして22歳になりました。
(ここでタイトルがその22だったら良かったのですが
 そんな壮大な伏線を用意する頭脳が私にはまだありませんでした)
いたって健康で好きなスポーツを毎日して、
こうして笑って誕生日を迎えられる事を非常に嬉しく思います。
第二の故郷・姫路でこれからも全力でレッスンさせていただきますので
皆様今後とも宜しくお願い致します。

さてさて、誕生日といいますと
皆様にもいろいろな思い出があるのではないでしょうか?
でも私は自分の誕生日に関する思い出があまりありません。
良い思い出も悪い思い出もあまりありません。
ないものをいくら探しても仕方がないので
関係があるかないか微妙なラインのお話をしていきたいと思います。

皆様は「運命数」というものをご存じでしょうか?
運命数とは生年月日の数字を一桁の数字になるまで全て足したものです。
占いや性格、相性診断などに使われたりします。
1998年12月3日生まれの私の運命数は「6」です。
運命数6の人は物静かで繊細な性格の持ち主だそうです。
また、足している途中でゾロ目の数字になるのも特別な意味があるそうで
私の運命数も「33」になります。
運命数33の人にはフィギュアスケートの金メダリストが多いらしく
幼少期に私がスケートを嗜んでいなかったことが悔やまれます。
ただ、これからスケーターを目指していくつもりはないので
日本スケート協会にはこのことが露見しないよう生きていきたいと思います。

才能と可能性は違うし、それに運命は左右されないというお話でした。

閑話休題。

本日私が再紹介する「そして、バトンは渡された」は2019年の本屋大賞、TBS「王様のブランチ」ブランチBOOK大賞2018、紀伊國屋書店・キノベス!2019大賞、2019年の「二十歳が一番読んだ小説ランキング」で3位にランクインした他、2021年10月には実写映画化もされた作品です。

個人的にもすごく好きな作品で、暗い作品がわりと好きな門井には珍しく明るい作品です。
家族や幸せ、愛の形について問うような作品で、誰かに本を勧める時に真っ先に思いつく作品のひとつです。

高校2年生の森宮優子。生まれた時は水戸優子だった。いろいろな親といろいろな家庭を経て今は森宮さんと一緒に暮らしている。母は2人、父は3人、これまでに名乗った苗字は今のも含めれば4つになります。

普通に考えれば悲劇。心配してくる大人もいましたが、当の本人はそれを不幸なことだとは考えていませんでした。それは5人の親がそれぞれ違う形で「優子」に愛情を注いでくれていたからでした。

物語の前半は高校生の優子、後半は大人になった優子の視点で描かれていきます。周囲で引き起こる問題や自分自身が結婚し家族を構成していく覚悟をすることで、血の繋がり、5人の親たちの愛情や思いについて考えるようになります。

自分自身の両親や兄弟姉妹と血が繋がっていて、当然のように愛されて生きてきた。きっとそういう方も多くいて、それが幸せの形なのだと信じる方もいらっしゃるかもしれません。ではその条件が満たされなければ不幸なのか?その答えはその状況下にいる方にしか分かりません。

「多様性」への理解が叫ばれる昨今ですが、小説もそういった愛や幸せの形を問うような作品が多くなっているような気がします。いわゆる常識へのアンチテーゼです。幸せに感じられている人を傍から見て勝手に「幸せじゃない」と評価したり、実は不幸を感じている人を「幸せに暮らしている」とか嘯いたり、そういう意味では日本もまだまだだな、と感じる今日この頃です。そもそも幸せという感情自体が完全に主観である以上、そこへ他人が介入したりだとか、テコ入れしようなどと考えることは愚かだと言う他ないでしょう。

皆様は「血の繋がり」と「愛情」の相関性についてはどうお考えになりますでしょうか。

「友達」という概念に関しては以前ブログでも触れた通り、学校を卒業した後に疎遠になるような奴は友達とは呼べない、というのが私の持論です。一定の条件下でのみだとか、ある程度の頻度で顔を合わせなくてはならない理由が存在する以上、その人へ向ける感情がどれだけ能動的なものか判断ができないのだと思うのです。本当にその人のことを思うならそんな強制力などなくとも自分から歩み寄るはずです。

家族に関しての感情も似たような見解です。因果関係ありきの愛情ではなく、私はもっと能動的な愛を持って家族と接していたい。誤解を恐れずに言えば「血の繋がり」などなんの意味も持たないのだと、そう考えています。日本には「お腹を痛めて産んだ子供」という表現が存在しますが、海外に比べ無痛分娩を選択する妊婦の割合が非常に低いそうです。そこには無痛分娩ができる施設や医師があまり多くないという理由もあるそうですが、本当にそれだけなのでしょうか?

私が誕生した際は帝王切開だったそうです。
母によると胎児だった私はなぜかへその緒をマフラーよろしく首に巻きつけていたらしく、帝王切開を選択しました。弟も帝王切開で産まれましたが、そんな私たち兄弟は「お腹を痛めて産んでもらった」他の子供たちより愛されていないのでしょうか?無痛分娩で産まれた海外の赤ん坊たちは「お腹を痛めて産んでもらった」日本の赤ん坊たちより愛されていないのでしょうか?

この作品も含め、いろいろな障害を通じて「真実の愛とはなにか」ということを読者に対して問いかける作品は数多く存在します。

大切なのは環境などではなく「愛したい」という能動的意思だと私は信じます。愛に理由などいらない。誰かの承認なんかいらない。自信を持って人を愛せる人間として生きていたいですね。

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